悲しみ・さびしさ・くやしさ・後悔・切なさ・むなしさ・あきらめの7つの気持ちを、1本に1つずつ描いた物語文です。うつむく、声が小さくなる、夕暮れや雨といった手がかりから、似ている気持ちのちがいを言い分けましょう。
土曜日の朝、蓮は自転車で、商店街のはずれにある小さなパン屋へ向かった。
この店のメロンパンを買うのが、三年生のころからの、蓮の土曜日の決まりだった。外はかりっとして、中はふわふわで、まだあたたかい。店のおばさんは、蓮の顔を見ただけで、だまって一つふくろに入れてくれる。
初めてこの店に来たのは、母といっしょだった。そのとき、おばさんが、おまけよ、と小さなクッキーをくれた。それからずっと、蓮はこの店に通っている。
ペダルをこぐ足は軽かった。今日はおこづかいで、弟の分も買うつもりだった。弟は、まだこの店のメロンパンを食べたことがないのだ。
ところが、店の前に自転車を止めたとき、ガラス戸に白い紙がはってあるのが見えた。今月の終わりで店をしめること、長い間ありがとうございました、ということが、ていねいな字で書いてあった。
蓮は、しばらくその紙の前から動けなかった。
「いらっしゃい。……ああ、見ちゃったか」
おばさんが戸を開けて、出てきた。いつもの白いエプロンに、こながついている。
「おじさんがね、こしをいためちゃったの。朝早くからパンをこねるのが、もうむずかしいのよ。蓮くん、いつも来てくれて、ありがとうね」
「……うん」
蓮は、それしか言えなかった。おばさんはいつものように、メロンパンを紙ぶくろに入れてくれた。弟の分も、と言うと、もう一つ入れて、お金は一つ分しか受け取らなかった。
帰り道、蓮は自転車に乗らずに、おして歩いた。商店街のシャッターが、行きよりも多くしまっているように見えた。空にはうすい雲が広がって、日の光がにぶくなっていた。パン屋のあまいにおいが、後ろからまだ追いかけてくるような気がした。
紙ぶくろの中のメロンパンは、まだあたたかかった。そのあたたかさが手に伝わってくるたびに、むねのおくが重くなった。来月の土曜日には、もうこのパンはない。おばさんのいらっしゃいという声も、もう聞けない。そう思ったとたん、静かな悲しみが、体の中にじわじわと広がっていった。
家に着くと、弟がげんかんまでかけてきた。
「お兄ちゃん、メロンパン」
蓮は、紙ぶくろを弟にわたした。弟は一口かじって、おいしい、と笑った。
その笑顔を見ていると、蓮も少しだけ、口もとがゆるんだ。けれど、自分の分には、なかなか手がのびなかった。
「お兄ちゃんは、食べないの」
「……あとで食べる」
蓮は、メロンパンをふくろに入れたまま、テーブルのはしに置いた。パンは、少しずつ、さめていった。
課題
夏休みの一週間、いとこの湊が、ぼくの家にとまりに来ていた。湊は小学一年生で、ぼくの部屋にふとんをしいてねた。
湊は、どこへでもぼくについてきた。ゲームをしていると横からのぞきこみ、宿題をしていると、つくえの下にもぐって足をつつく。トイレにまで、ついてこようとしたこともある。夜は、ぼくが電気を消そうとすると、かいじゅうの絵本を持ってくる。
「拓海にいちゃん、これ読んで」
「もう三回読んだだろ。自分で読めよ」
そう言いながらも、ぼくは毎晩読んでやった。でも本当は、少しうんざりしていた。早く自分の部屋を、一人で使いたかった。
日曜日の朝、おばさんが湊をむかえに来た。
「にいちゃん、またね。また来るからね」
湊は車のまどから身を乗り出して、何度も手をふった。ぼくは、げんかんの前で一回だけ手をふり返した。車が角を曲がると、ぼくは大きくのびをした。これでやっと、部屋を広く使える。
その日の午後、ぼくは部屋で、ずっとやりたかったゲームを始めた。じゃまをする者は、だれもいない。それなのに、ゲームの中で、ぼくは何度も同じ場所でやられた。けれど、三十分もしないうちに、ぼくはコントローラーを置いた。
部屋は、しんとしていた。ふとんをかたづけたあとのゆかが、ぽっかりと広い。エアコンの音だけが、低く鳴りつづけている。
ぼくは、つくえの上の絵本を手に取った。湊がわすれていったものだ。ページをめくると、最後のページに、紙が一まいはさまっていた。
クレヨンでかいた絵だった。大きな男の子と小さな男の子が、手をつないでいる。上には、ゆがんだ大きな字で、たくみにいちゃん、と書いてあった。二人の後ろには、絵本のかいじゅうも、ちゃんといた。
ぼくは、その絵をしばらく見ていた。それから、絵本の最初のページを開いて、声に出して読み始めた。毎晩、湊が、つづきは、とせがんだ話だ。今日は、その声がどこからも聞こえてこない。
三回も読んだはずの話なのに、最後のページで、ぼくの声は小さくなった。
まどの外では、日がかたむき始めていた。オレンジ色の光が、湊のねていたあたりのゆかを、細長くてらしている。
やっと一人になれたのに、ちっともうれしくない。自分でも、それがふしぎだった。
ぼくは絵を、セロハンテープでつくえの前のかべにはった。少しななめになったので、一度はがして、まっすぐにはり直した。
夕ご飯のとき、ぼくは母に聞いた。
「湊、今度はいつ来るの」
母は少しおどろいた顔をして、それから、ふっと笑った。
課題
「負けました」
ぼくは頭を下げた。声が、自分でもおどろくほど小さかった。向かいで三年生の小春が、「ありがとうございました」とはっきり言った。
しょうぎ教室の秋の大会で、ぼくが負けたのは初めてだった。しかも相手は、春に入ってきたばかりの子だ。ぼくはばんの上のこまを、だれよりも早く箱にもどした。指先に力が入りすぎて、こまがかちかちと音を立てた。
「悠人くん、さっきの対局、いっしょにふり返ろうか」
先生が声をかけてくれたが、ぼくは「用事があるので」と答えて、上着をつかんだ。本当は、用事なんて何もなかった。
外に出ると、西の空が赤くそまっていた。道の上に、ぼくのかげが細く長くのびている。ぼくはくちびるをかんで、足もとの小石をけった。小石は道のわきのみぞに落ちて、見えなくなった。
通りの向こうから、同じ教室の子たちの笑い声が聞こえてきた。ぼくは顔をふせて、わざと反対がわの道に曲がった。
家まで半分ほど来たところで、ぼくは足を止めた。水とうを教室に置いてきたのだ。もどりたくはなかった。でも、あの水とうは、母に買ってもらったばかりだった。
教室のドアを少しだけ開けると、まだ明かりがついていた。おくのつくえで、小春と先生がばんをはさんで向かい合っている。ならんでいるのは、さっきのぼくとの対局だった。
「ここで、もし角を打たれてたら、わたし、負けてました」
小春の声は、少しふるえていた。先生がうなずくと、小春はこまを何度も動かして、その手を確かめた。勝った小春のほうが、ずっとしんけんな顔をしていた。ばんの横のノートには、細かい字がびっしりとならんでいた。
ぼくはドアのすき間から、ばんを見つめた。そこに角を打つ手は、ぼくも一度は考えたのだ。こわくなってやめた手だった。はずかしくて顔が熱いのに、ばんから目がはなせなかった。
そのとき、先生がこちらに気づいて手まねきした。ぼくは目をそらしかけたが、水とうを取るふりをして中に入った。
「悠人くんは、どこで角を打とうと思った」
先生に聞かれて、ぼくはだまってこまを一つ手に取った。それから、ばんの真ん中に、ぱちんと置いた。小春が「あっ」と声を上げて、ぼくの顔を見た。
「次は、ここに打つから」
ぼくが言うと、小春は「じゃあ、わたしはこうします」と、すぐにこまを動かした。ぼくはまた考えこんだ。まどの外はもう暗かったが、ぼくはなかなか帰ろうとしなかった。
課題
「美月先ぱい、水、かえないんですか」
金曜日の放課後、飼育小屋の前で、四年生の陸が水入れをかかえていた。飼育委員の当番は、六年生と四年生の二人組だ。小屋の中では、白いうさぎが、わらの上で丸くなっていた。
「まだ半分入ってるし、月曜でだいじょうぶだよ。ごめん、今日は急いでるの」
美月はランドセルをゆすり上げた。友だちの家で、新しいゲームをする約束をしていたのだ。陸は何か言いたそうに水入れを見ていたが、美月はもう校門のほうへかけ出していた。
土曜日も日曜日も、よく晴れて暑かった。美月は友だちと遊んで、うさぎのことは一度も思い出さなかった。日曜日の夜、テレビで「今年いちばんの暑さでした」と言っていたが、それも気にとめなかった。
月曜日の朝、美月が小屋に行くと、陸が先に来ていた。水入れには、すきとおった水がいっぱいに入っている。
「あれ、もうかえてくれたの」
「……土曜日に、お母さんと来たんです。気になって」
陸は小さな声で言った。土曜日に来たとき、水入れは空っぽだったという。うさぎは小屋のすみで、ぐったりと横になっていたらしい。新しい水を入れると、顔をつっこんで、いつまでも飲み続けたそうだ。
「用務員さんにかぎを開けてもらって、日曜日も来ました。もう元気です」
うさぎは陸の足もとに寄ってきて、鼻をひくひくさせていた。美月は返事ができなかった。金曜日、自分は「だいじょうぶ」と言った。何も確かめないで、あんなに軽く言ったのだ。
小屋のあみごしに、朝の光がななめにさしこんでいた。その光の中で、水入れの水がきらきらとゆれている。美月は、その水をまともに見ることができなかった。
うさぎが元気で、本当によかったと思う。それなのに、ちっとも笑えない。胸の中に、重い後悔が広がっていった。
美月はしゃがんで、うさぎの背中にそっと手を当てた。あたたかかった。
うさぎは鼻をひくひくさせて、美月の指先のにおいをかいでいた。陸は、美月を一度もせめなかった。
「陸くん、ありがとう。それから、ごめんね」
陸はびっくりしたように顔を上げて、首を横にふった。
その日の昼休み、美月は職員室で当番表をもらってきた。そして、金曜日のらんに、自分の名前を赤い字で書き足した。それから、水入れの横に「金曜日は、かならず水をかえる」と書いた紙をはった。
課題
おばさんの家に着くと、わたしはくつをぬぐのももどかしく、ろうかをかけた。
「航くん、海に行こう。貝がら、今年もいっぱい拾おうよ」
二階から下りてきた航は、去年よりずっと背がのびていた。声も、少し低くなっている。日に焼けたうでも、がっしりと太くなっていた。
「ごめん、七海。今日は部活の友だちと約束があるんだ」
航は、つりざおのケースをかたにかけて出ていった。げんかんのドアが閉まる音を、わたしはろうかに立ったまま聞いていた。
去年までは、夏休みのたびに二人で浜に行った。貝がらを拾っては、どちらがきれいなのを見つけるか、きそい合った。航が中学生になっても、それは変わらないと思っていた。わたしは、すっかりがっかりしていた。
夕方、わたしは一人で浜に出た。空はオレンジ色から、だんだんむらさきに変わっていく。よせる波が、わたしの足あとを一つずつ消していった。わたしは貝がらを三つだけ拾って、ポケットに入れた。
家にもどると、おばさんが「航の部屋のうちわ、取ってきてくれる」とたのんだ。
航の部屋は、知らない人の部屋みたいだった。かべにはサッカー選手のポスターがはってあり、つくえの上には中学の教科書が積んである。うちわを探してたなを見上げたとき、わたしは手を止めた。
たなのいちばん上に、ガラスのびんがならんでいた。一つ、二つ……全部で五つある。どのびんにも貝がらが入っていて、ラベルがはってあった。「七海と、一年目」「七海と、二年目」。航の字だった。
わたしはびんを一つ手に取った。中で、小さな貝がらがかさりと鳴った。わたしが「これ、いちばんきれい」と言って航にあげた、ピンクの貝もあった。
びんのふたには、どれも白くほこりが積もっていた。指でなぞると、そこだけ線のようにすき通った。
わたしはびんを、そっと元の場所にもどした。胸のおくがあたたかいのに、同じところが、きゅっとしめつけられる。わたしは、しばらくたなの前から動けなかった。
夜になって、航が日焼けした顔で帰ってきた。夕ごはんのあいだ、航は部活の話ばかりしていた。わたしの知らない名前が、次々に出てきた。
「七海、明日の朝なら、少し時間あるけど。浜、行くか」
「……うん」
わたしはポケットの中の三つの貝がらを、にぎりしめた。来年の夏、航はもう、浜に行こうとは言わないかもしれない。それでも明日は、いちばんきれいな貝を見つけて、航にわたそうと思った。
課題
「図書だより」の十一月号ができ上がったのは、金曜日の朝だった。真央は図書委員になってから、毎月この新聞を書いている。今月は「冬に読みたい本」を五さつえらんで、それぞれに小さな絵をそえた。
昼休み、真央は各クラスに配った新聞のようすを見に行った。三年生の教室の前を通ったとき、足が止まった。
ろうかのごみ箱に、図書だよりが丸めて捨てられていた。一まいではない。上のほうだけで、四、五まいはある。教室の中では、何人かの子が新聞のうらに、線を引いてゲームをしていた。だれも、ろうかの真央には気づかなかった。
真央はごみ箱から一まい拾い上げて、しわをのばした。真央が二日かけてかいた雪だるまの絵が、まん中で折れ曲がっていた。
図書室にもどっても、真央は当番の仕事に手がつかなかった。カウンターのはしで、新聞のしわを指でなぞっていた。当番の仲間に話しかけられても、「うん」としか答えなかった。
夜おそくまで絵をかいたことも、何度も読み直してしょうかい文を書いたことも、全部むだだった気がする。体から、すうっと力がぬけていく。むなしさが、じわじわと胸に広がった。
帰り道、空は灰色の雲におおわれていた。かれ葉が風にふかれて、道のはしにたまっている。真央はランドセルのかたひもをにぎって、その葉をよけもせずに歩いた。
家に帰ると、二年生の弟の蒼が、リビングの床にねそべっていた。何かに色えんぴつで色をぬっている。
「おねえちゃん、見て」
蒼がかかげたのは、図書だよりだった。真央のかいた雪だるまに、赤いマフラーと青いぼうしがぬってある。しょうかいした本の題名のうち、一つに大きな丸がついていた。
「これ、おねえちゃんが書いたんでしょ。先生が言ってた。ぼく、明日この本借りるんだ。くまが冬に起きちゃう話」
真央は、自分の書いたしょうかい文を思い出した。冬にねむれなくなったくまが、雪の森を歩く話だ。二年生でも読めるようにと、わざとひらがなの多い本をえらんだのだった。
「……その本、最後がいいんだよ」
「言わないで。自分で読むから」
蒼は両手で耳をふさいで、ころころと笑った。真央も、つられて少しだけ笑った。ほっとしたような、まだ少し悲しいような、ふしぎな気持ちだった。
ランドセルの中には、しわしわの一まいが入ったままだ。真央はそれを取り出して、ていねいに折りたたみ、引き出しにしまった。それから、十二月号の下書きのノートを開いた。
課題
進級テストの結果の紙には、今回も「不合格」と書いてあった。四回目だった。
二十五メートルのクロールで、ぼくはいつも十五メートルあたりで立ってしまう。息つぎで顔を上げると、水を飲んでしまうのだ。プールサイドで次の練習の説明を聞きながら、ぼくはゴーグルのゴムを意味もなく引っぱっていた。同じころに入った子たちは、もう平泳ぎの練習をしている。
家に帰ると、ぼくは紙を小さくたたんで、つくえの引き出しのおくにおしこんだ。ぬれた水着はバッグから出さずに、げんかんに置きっぱなしにした。来週からは、もう行かない。母には、そう言うつもりだった。
次の日の日曜日、母が近所の結衣ちゃんを、市民プールに連れていくことになった。結衣ちゃんのお母さんが、急な仕事で出かけたのだ。ぼくも、むりやりついて行かされた。
結衣ちゃんは一年生で、まだ顔を水につけられなかった。水面に鼻先が近づくと、ぎゅっと目をつぶって、すぐに顔を上げてしまう。母はプールサイドのベンチから、ぼくたちを見ていた。ぼくはしかたなく、結衣ちゃんの手を引いて、浅いほうのプールに入った。
「こわいよ。息ができなくなっちゃう」
「口から、ぶくぶくって息をはけばいいんだよ。はいてるあいだは、水は入ってこないから」
言ってから、ぼくははっとした。それは、ぼくが一年生のときに、教室の先生から教わったことだった。あのころのぼくも、顔をつけるたびに泣いていた。
結衣ちゃんは何度も失敗した。それでも、ぼくの手をにぎったまま、また水に顔を近づけた。七回目に、ぶくぶくとあわが上がって、結衣ちゃんの頭がすっぽり水にしずんだ。
「できた。陽太くん、見てた。できたよ」
結衣ちゃんは顔じゅうから水をたらして、ぴょんぴょんとはねた。夏の日ざしが水面にはね返って、まぶしかった。
「陽太くんは、なんでもできていいなあ。テストも、すぐ合格するんでしょ」
ぼくは返事につまった。引き出しのおくの、たたんだ紙のことを思い出した。でも、結衣ちゃんにじっと見つめられて、首を横にふることはできなかった。うれしいような、はずかしいような気持ちで、ぼくは水面に目を落とした。
「……うん。次は、合格するよ」
家に帰ると、ぼくはげんかんのバッグから水着を出して、ベランダにほした。それから、ふろ場の洗面器に水をはり、顔をつけて、ゆっくり息をはいた。ぶくぶく、ぶくぶく。顔を上げて、もう一度つけた。
課題
デルバトのプリントは無料で印刷・配布できます。本文はこのプリントのために書いたオリジナルの文章です。設問は順に追加します。