部活にうちこむ兄や受験勉強をする姉にあこがれていた主人公が、そのきびしさを知ったうえで、それでも自分もやってみたいと思う物語文2本です。こわさとあこがれがまざった終わりの気持ちを、言葉にしてみましょう。
春の演奏会で、陽太は初めて、兄の大輝がトランペットをふくところを見た。体育館の明かりが少し暗くなり、兄が一人で立ち上がった。金色の楽器が光を受けて、高い音がまっすぐのびていく。陽太はひざの上でこぶしをにぎったまま、息をするのも忘れていた。
演奏が終わると、陽太はだれよりも大きく手をたたいた。中学生になったら、ぼくも吹奏楽部に入って、兄ちゃんみたいにソロをふく。帰り道、陽太は何度もそう口にした。
夏休みに入ってすぐの夜、兄はなかなか帰ってこなかった。陽太が玄関で待っていると、九時近くになって、やっとドアが開いた。
「兄ちゃん、おそかったね」
兄は返事をしないで、楽器のケースをゆっくり下ろした。口びるのはしが赤くはれて、少し血がにじんでいた。シャツの背中は、あせでぐっしょりぬれていた。
陽太は、部屋に入った兄のあとをついていった。つくえの上のノートには、「高いド 二十回」「タンギング 五十回」と、細かい字がびっしりならんでいた。ページをめくっても、めくっても、同じような字がつづいていた。
「毎日、同じところを百回ふくんだ。それでも今日、大会のソロは、ほかのやつに決まった」
兄はそう言って、ノートをとじた。陽太はあの金色の光を思い出そうとした。けれど、目に入るのは兄のはれた口びるばかりだった。ふくらんでいた夢が、空気のぬけた風船のようにしぼんでいった。
「……そんなに大変なら、ぼく、やめとこうかな」
兄はしばらくだまっていた。それから引き出しを開けて、銀色の小さな部品を取り出し、陽太の手にのせた。
「マウスピース。ふいてみろ」
陽太が思いきり息をふきこむと、ぶう、とおかしな音が出た。兄が、今日初めて笑った。
「おれも最初はそうだった。でもな、一回いい音が出ると、やめられなくなる」
兄はケースからトランペットを出して、窓を開けた。音をおさえて、演奏会でふいた曲の始まりを短くふいた。はれた口びるのせいで、少しかすれた音だった。それでも、あの日と同じメロディだった。
開いた窓から夜の風が入ってきて、カーテンを大きくふくらませた。
陽太は、手の中のマウスピースをにぎりしめた。あんなに大変なのは、正直こわい。それなのに、胸のおくのどきどきが止まらなかった。
「兄ちゃん、もう一回、ふいてもいい」
兄は「何回でも」と言って、窓の外を見たまま、もう一度トランペットをかまえた。
課題
姉の遥の部屋には、夜になると、いつも電気スタンドの白い光がともっていた。中学三年の姉は、高校受験をひかえた受験生だ。夕飯がすむと、姉はすぐに部屋にもどって、夜おそくまで出てこなかった。
ある日、わたしは姉がいないあいだに、こっそり机をのぞいた。ノートには色ペンで線が引かれ、図や矢印がきれいにならんでいた。まるで教科書のようだった。ページのすみには、小さな字で「入試まで、あと百二十日」と書いてあった。
わたしは姉のいすにすわって、同じ色ペンを手に取ってみた。来年は、わたしも塾に通って中学受験をしたい。姉みたいな受験生になるんだ。そう考えると、顔が自然にゆるんだ。
「千夏、何してるの」
ふり向くと、姉が立っていた。わたしはあわてていすからおりたが、姉は「いいよ」と笑って、わたしの頭を軽くなでた。
それから三週間たった、冬の夜のことだった。お茶を持って姉の部屋に入ると、姉は机にうつぶせていた。机の上には、模試の結果の紙がある。点数は、前よりずっと下がっていた。
「お姉ちゃん、わたしもね、受験生になったら」
「遊びじゃないんだよ」
姉は顔を上げずに言った。机には消しゴムのかすが山のようにたまり、ノートは何度も消したせいで、ところどころ破れていた。ペン立ての色ペンは、ばらばらにたおれていた。
わたしは、お茶のコップを持ったまま動けなかった。きれいなノートの向こうに、こんな夜があるなんて知らなかった。受験生になりたいという気持ちが、急に小さくなっていった。
しばらくして、姉がゆっくり顔を上げた。目のまわりが赤くはれていた。
「ごめん。言いすぎた」
姉はぶあついノートを一冊、わたしの前に置いた。表紙のかどが、丸くすりきれていた。まちがえた問題だけを書き写したノートだという。どのページにも同じ問題が二回も三回も書いてあり、最後に赤い丸がついていた。
「昨日できなかった問題が、今日できるとね。ほんの少しだけ、自分のことが好きになれるの」
わたしは赤い丸を指でなぞった。大変なのは、もう分かった。こわいのに、指先がじんわりあたたかくなった。わたしもいつか、こんな丸を自分のノートにつけてみたい。
窓の外では、冷たい夜空に、星が一つだけ強く光っていた。
「お姉ちゃん、となりで算数のドリル、やってもいい」
姉は電気スタンドを少しずらして、わたしの場所を作ってくれた。
課題
デルバトのプリントは無料で印刷・配布できます。本文はこのプリントのために書いたオリジナルの文章です。設問は順に追加します。