緊張・おそれ・とまどい・あせり・気おくれ・心細さの6つの気持ちを、1本に1つずつ描いた物語文です。手がつめたい、何度も時計を見る、知らない道やざわめきといった体と情景の手がかりに線を引きながら読みましょう。
給食の時間まで、あと十分だった。わたしは放送室のいすにすわって、原稿を何度も読み返していた。今日は初めて、一人で昼の放送をする日だった。
原稿は、来週の図書室の行事のお知らせと、今日の給食のこんだてだ。きのうの夜、家で十回以上も声に出して練習した。それなのに、さっきから同じ行ばかり目で追っている。
手がつめたくて、原稿のはしがかすかにふるえた。水とうのお茶を飲んでも、すぐにのどがかわく。かべの時計を見るたびに、針が少しも進んでいない気がした。
「千夏ちゃん、だいじょうぶ」
六年生の理沙さんが、ドアから顔を出した。放送委員長で、いつも落ち着いた声で話す人だ。
「……ぜんぜん、だいじょうぶじゃないです。まちがえたら、全校に聞こえちゃう」
言ったとたん、自分の声がうら返っていて、ますます顔が熱くなった。
理沙さんは笑って、となりのいすにすわった。そして、一冊の古いノートを開いて見せてくれた。ページのあちこちに、赤い字で書きこみがある。
「これ、わたしが五年生のときの放送ノート。ここ、見て」
指さされたところには、ふるえたような字で「名前をかんだ。最悪」と書いてあった。その下に、「でも、だれも気づいていなかった。みんな給食に夢中」と続いていた。
わたしは思わずふき出した。あの理沙さんでも、かんだことがあるのだ。
「みんな、カレーのほうが大事なんだよ。千夏ちゃんの声は、おまけくらいでいいの」
理沙さんがそう言ったとき、ろうかからカレーのにおいがただよってきた。配ぜん車のがらがらという音も聞こえる。わたしは、ゆっくりと深く息をすった。
「……やってみます」
時計の針が、十二時二十分をさした。マイクのスイッチにのせた指は、まだ少しふるえていた。緊張は消えていない。けれど、むねのおくのどきどきが、さっきとはちがって少しだけ楽しかった。
わたしはスイッチを入れた。赤いランプがつく。
「みなさん、こんにちは。昼の放送の時間です」
一行目は、思っていたよりまっすぐな声が出た。三行目で一度だけつっかえたけれど、止まらずに読み続けた。
放送を終えてランプを消すと、ガラスの向こうで理沙さんが小さく手をたたいていた。わたしはほっとして、いすの背にもたれた。それから自分のノートを開き、一ページ目にこう書いた。
「三行目でつっかえた。でも、たぶんだれも気づいていない」
課題
習字教室へ行くとちゅうに、大きな黒い犬のいる家がある。わたし、美羽は、いつもその家の前を通らずに、一本向こうの道を回っていた。そのほうが、五分も長くかかるのに。
三年生のとき、その犬に、へいの向こうから大きな声でほえられた。わたしはしりもちをついて、習字道具を道にばらまいた。それからは、遠くで犬の鳴き声が聞こえるだけで、足が止まってしまう。
その日、いつもの回り道は、工事で通れなくなっていた。わたしはかどに立ったまま、しばらく動けなかった。黒い犬の家は、ほんの十メートル先だ。
習字バッグの持ち手を、両手でにぎりしめた。へいからいちばん遠い道のはしを、息を止めて早足で歩きはじめる。
家の前まで来たとき、空が急に暗くなった。遠くで、ごろごろと低い音がした。次のしゅんかん、門が開いて、黒い犬が飛び出してきた。
わたしはその場でかたまった。声も出なかった。どきどきという音が耳の中でひびいて、ひざががくがくとふるえた。
ところが、犬はわたしには目もくれず、道のまん中でふせてしまった。大きな体を丸めて、しっぽを後ろ足の間にはさんでいる。
「あら、ごめんなさいね。かみなりが鳴ると、こうなっちゃうのよ」
白いかみのおばあさんが、リードを持って家から出てきた。おばあさんは首輪にリードをつけようとしたが、犬は動こうとしない。
空が、もう一度光った。犬の背中が、びくりとはねた。よく見ると、太い前足が小さくふるえている。さっきのわたしのひざと、同じだった。
「この子、体は大きいけど、おくびょうでね。知らない人にほえるのも、自分の家を守りたいからなの」
おばあさんの話を聞きながら、わたしは犬の顔を見た。黒い目が、上目づかいにわたしを見ていた。
わたしはそっとしゃがんで、手のこうを犬の鼻の前に出してみた。指先は、まだ少しつめたかった。犬はくんくんとにおいをかいでから、ざらざらした舌で、わたしの指をぺろりとなめた。
「あら。この子が初めての人をなめるなんて、めずらしい」
わたしは、思わず笑ってしまった。ほっとしたのに、むねはまだ少しどきどきしている。あんなに遠回りしていた自分が、少しおかしかった。
かみなりは遠ざかって、雲のすき間から、うすい日がさしてきた。犬はゆっくり立ち上がり、おばあさんの足もとにすりよった。
「習字、がんばってね」
おばあさんに手をふって、わたしは歩きだした。少し行ってふり返ると、黒い犬がへいの前にすわって、じっとこちらを見ていた。わたしは、もう一度手をふった。
課題
子ども会の秋のハイキングで、陽太は初めて班長になった。六年生は、一年生と二人で組むことになっている。陽太の相手は、近所に住む芽依という女の子だった。
芽依は、出発のときからお母さんのスカートをはなさなかった。陽太が「行こうか」と声をかけても、首を横にふるばかりだった。
山道に入ると、芽依はますます口をきかなくなった。陽太が先を歩くと、ずっと後ろのほうをとぼとぼついてくる。待っていると、ぴたりと止まる。
「つかれた。もう歩かない」
坂のとちゅうで、芽依はとうとうしゃがみこんだ。ほかの班は、どんどん先へ行ってしまう。木の間から、前の班のぼうしが小さく見えるだけになった。
陽太には、弟も妹もいない。小さい子と話したことなど、ほとんどなかった。「がんばれ」と言うと、芽依は目にいっぱいなみだをためた。「先生をよぶよ」と言うと、とうとう声を上げて泣きだした。
陽太は、ただとまどい、頭をかいて立っているしかなかった。風がふいて、頭の上で木の葉がざわざわと鳴った。うす暗い山道に、芽依の泣き声だけがひびいていた。
そのとき、陽太はふと、自分が一年生だったときのハイキングを思い出した。あのとき陽太も、この坂で泣いたのだ。六年生の男の子は何も言わずにとなりにしゃがんで、どんぐりを一つ、てのひらにのせてくれた。
陽太は芽依のとなりにしゃがんだ。足もとの落ち葉をかき分けると、ぼうしをかぶったどんぐりが、いくつも出てきた。
「ほら、これ。ぼうしつき」
芽依はしゃくり上げながら、陽太の手の中をのぞきこんだ。
「……こっちのほうが、大きい」
芽依は、自分で一つ拾った。陽太がもう一つ見つけると、芽依も負けずにさがしはじめた。いつのまにか、泣き声は止まっていた。
「じゃあさ、てっぺんまでに、どっちがたくさん拾えるか競争しよう」
芽依はこくりとうなずいて、立ち上がった。そして、だまって陽太の手をにぎった。小さな手は、思っていたよりあたたかかった。
陽太は、少しくすぐったくて、少しうれしかった。二人はどんぐりを拾いながら、ゆっくり坂を登っていった。木の間から光がさしこんで、落ち葉の道を明るく照らしていた。
てっぺんに着くと、芽依はポケットいっぱいのどんぐりを、お母さんに見せに走っていった。
「班長さんといっしょに、拾ったの」
その声は、出発のときより、ずっと大きかった。
課題
お母さんの誕生日の夕方、ぼくはお父さんと二人で台所に立っていた。お母さんには内しょで、夕飯にハンバーグを作るのだ。お母さんが仕事から帰るのは、七時の予定だった。
ところが、ひき肉をこねはじめたところで、お父さんの電話が鳴った。会社からだった。
「ごめん、蓮。急ぎの仕事なんだ。三十分だけ、たのむ」
お父さんはパソコンを持って、となりの部屋に入ってしまった。台所には、ぼくと、ボウルいっぱいのひき肉だけが残された。
時計を見ると、六時十分だった。料理の本を開いて、手順を指でなぞる。玉ねぎは、まだ切っていない。包丁を持つと、玉ねぎがまな板の上で転がって、なかなか切れない。目にしみて、なみだがにじんだ。
やっと形を作ってフライパンにならべたとき、時計は六時四十分をさしていた。ぼくは火を強くした。早く焼かないと、間に合わない。
じゅうじゅうという音が、だんだん大きくなる。ふたを開けると、こげくさいにおいがもわっと立ちのぼった。ひっくり返すと、ハンバーグの裏は、どれもまっ黒になっていた。
「うそだろ……」
手がすべって、フライ返しがゆかに落ちた。ひたいにあせがにじむ。時計の秒針の音が、いやに大きく聞こえた。外はもう暗く、窓ガラスにぼくのこわばった顔がうつっていた。
もう一度作るひき肉は、残っていない。ぼくは料理の本をめくったり、冷ぞう庫を開けたりした。何をさがしているのか、自分でもわからなかった。
そのとき、本の間から、古いメモが一まいすべり落ちた。お母さんの字だった。
「はじめてのハンバーグ。火が強すぎて、こがした。こげたところをけずって、ソースをたっぷりかけたら、おいしいと言ってもらえた」
日付は、ぼくが生まれる前のものだった。ぼくはメモを二回読んだ。それから、ふうっと長く息をはいた。
ガスの火を止めて、包丁でこげたところをていねいにけずった。ケチャップとソースをまぜて、たっぷりかける。形はでこぼこだけど、においは悪くない。ぼくは少しほっとした。
「蓮、ごめん、終わった……あれ、もうできたのか」
部屋から出てきたお父さんが、目を丸くした。ぼくがメモを見せると、お父さんは声を上げて笑った。
「なつかしいなあ。これを食べたの、お父さんだよ。あのときのハンバーグ、本当にうまかったんだ」
七時を少し過ぎて、げんかんのかぎが回る音がした。ぼくはお父さんと顔を見合わせた。こがしたのはくやしいのに、お母さんの顔を見るのが、なんだか楽しみだった。
テーブルの上では、でこぼこのハンバーグが、白いゆげを立てていた。
課題
春から、七海はスイミングクラブの選手コースに入ることになった。冬の記録会のあとで、コーチにさそわれたのだ。さそわれた日は、家まで走って帰るほどうれしかった。その夜は、新しい水着をまくらもとに置いてねむった。
初めての練習の日、七海はプールサイドに立ったまま、すぐには動けなかった。
選手コースの人たちは、ほとんどが中学生だった。みんな七海より頭一つ大きく、かたはばも広い。そろいの青いぼうしをかぶっている。七海のぼうしだけが、ジュニアコースの黄色だった。
中学生たちは、大きな声で笑いながら、次々に水に飛びこんでいった。水しぶきの音が、天井の高いプールいっぱいにひびく。コーチの笛が鳴るたびに、列がいっせいにスタートしていく。
七海はタオルをかたにかけたまま、プールのすみのベンチにすわった。いつもの見なれたプールなのに、今日は水がずっと深く見えた。黄色いぼうしのゴムを、何度も引っぱっては直した。
「黄色いぼうしの子、新しい子だよね」
声をかけてきたのは、すぐ前のコースで泳いでいた中学生だった。ゴーグルをおでこに上げると、日に焼けた顔で笑った。
「わたし、美帆。同じ練習コースだよ。入らないの」
「五年の、七海です。……みんな、速そうだから」
それだけ言うのが、やっとだった。年上ばかりの中に入っていく気おくれが、足をベンチにくぎづけにしていた。
美帆さんはプールのへりに両ひじをついて、少し考えるような顔をした。
「わたしもね、五年生でここに来たとき、一番おそかったよ。三か月くらい、毎回みんなに一周おいていかれた」
「美帆さんが、ですか」
「そう。でもね、コーチは今速い子をさそうんじゃないんだって。これからのびる子をさそうんだって。だから、七海ちゃんもだいじょうぶ」
七海は、にぎりしめていたタオルを、ゆっくりベンチに置いた。
立ち上がって、黄色いぼうしをかぶり直す。ゴーグルをつけると、青い水の底で、天井のライトがゆらゆらと光っていた。
七海は深く息をすって、プールに飛びこんだ。つめたい水が、全身をつつんだ。
一本目の二十五メートルで、七海は中学生たちに大きくはなされた。それでも、かべにタッチして顔を上げると、美帆さんがとなりのコースから親指を立てていた。
七海は息を切らしながら、少しはずかしくて、でもうれしくて笑った。そして、かべをけって、次の一本を泳ぎだした。
課題
夏休み、結衣は初めて一人で電車に乗って、おばあちゃんの家へ向かった。お母さんが書いてくれたメモには、乗りかえの駅と、ホームの番号が書いてある。
最初の電車は、思っていたよりかんたんだった。窓の外の景色をながめているうちに、乗りかえの駅に着いた。
ところが、ホームに下りたとたん、結衣は立ち止まった。
大きな駅だった。人の波があちこちから流れてきて、またあちこちへ消えていく。アナウンスと発車のベルが重なって、何を言っているのか聞き取れない。結衣は人にぶつからないように、柱のかげに入った。
メモには、乗りかえは「五番線」とある。けれど、まわりの案内板のどこにも、五番線の文字が見つからない。結衣は、メモと案内板を何度も見比べた。リュックのひもをにぎる手が、じっとりとしめってきた。
天井の高い通路に、たくさんの足音がひびいていた。だれもが行き先を知っているように、まっすぐ歩いていく。その中で、結衣だけが止まっていた。
お母さんに電話をかけようとして、結衣は手を止めた。一人で行けると言い張ったのは、自分だった。
そのとき、すぐそばで、だれかが鼻をすする音がした。
見ると、一年生くらいの男の子が、切符をにぎりしめて立っていた。ぼうしのつばの下で、目が赤くなっている。
「どうしたの」
「……おばあちゃんちに行くの。でも、ホームがわかんない」
男の子の切符には、結衣と同じ駅の名前が書いてあった。結衣は、思わず背すじをのばした。
「わたしもそこに行くの。いっしょにさがそう」
結衣は男の子の手を取って、近くにいた駅員さんのところへ行った。さっきまでは、人に聞くことさえ思いつかなかったのに、今度はすぐに足が動いた。
「五番線は、階段を下りて、地下の通路の先だよ」
駅員さんが指さした階段を、二人で下りた。男の子の手は小さくて、少しあせばんでいた。結衣は、その手をはなさないように、しっかりにぎった。
五番線のホームに着くと、ちょうど電車が入ってくるところだった。ならんで座席にすわると、男の子は大きく息をついて、結衣を見上げた。
「お姉ちゃん、すごいね。一人で来たの」
「うん。まあね」
結衣は少しむねをはって答えた。ほっとしたような、くすぐったいような気持ちだった。さっきまで足がすくんでいたことは、だまっておいた。
電車が動きだすと、窓の外に、明るい夏の田んぼが広がりはじめた。
課題
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