レシピを読むことと、実際に料理をすることをくらべる意見文です。「玉ねぎがすき通るまで」という言葉が手を動かしてはじめてわかる、という例が、主張をどう支えているかを考えましょう。
家の手伝いで、料理を作ったことはあるだろうか。レシピを見れば、材料も手順も書いてある。そのとおりに作れば、だれでも同じ料理ができるはずだ。では、レシピを読んで知ることと、実際に作ってわかることは、同じなのだろうか。
一般的に、本や言葉で知れば、十分にわかると考えられている。レシピには、材料の量も、火にかける時間も、きちんと数字で書いてある。多くの人は、くわしいレシピがあれば、料理はできたも同然だと考える。読んで覚えれば、作らなくてもわかる、というわけである。
ところが、体験には言葉にならない部分があり、それが言葉を深くする。言葉は、体験を切り取った一部にすぎない。レシピには「玉ねぎがすき通るまでいためる」と書いてある。けれども、「すき通る」がどんな色のことか、どのくらいの時間かは、作ってみないとわからない。切り取られなかった部分は、体験でしか補えない。そして、一度自分の目で見たあとなら、「すき通るまで」の一言で、色も、においも、火の強さも思い出せるようになる。
このように、レシピは料理の代わりにはならない。言葉で知ったことを、手を動かして確かめる。すると、言葉のうしろにあるものが見えて、言葉そのものが深くなる。料理は、レシピの外にあるものを身につけることなのである。
課題
家の手伝いで、料理を作ったことはあるだろうか。レシピを見れば、材料も手順も書いてある。そのとおりに作れば、だれでも同じ料理ができるはずだ。では、レシピを読んで知ることと、実際に作ってわかることは、同じなのだろうか。
一般的に、本や言葉で知れば、十分にわかると考えられている。レシピには、材料の量も、火にかける時間も、きちんと数字で書いてある。多くの人は、くわしいレシピがあれば、料理はできたも同然だと考える。読んで覚えれば、作らなくてもわかる、というわけである。
ところが、体験には言葉にならない部分があり、それが言葉を深くする。言葉は、体験を切り取った一部にすぎない。レシピには「玉ねぎがすき通るまでいためる」と書いてある。けれども、「すき通る」がどんな色のことか、どのくらいの時間かは、作ってみないとわからない。切り取られなかった部分は、体験でしか補えない。そして、一度自分の目で見たあとなら、「すき通るまで」の一言で、色も、においも、火の強さも思い出せるようになる。
たとえば、はじめてカレーを作るとき、レシピには「肉を焼き色がつくまで焼く」と書いてある。ところが、火にかけてみると、思ったより早く油がはね、肉の表面はすぐに白くなる。「焼き色」とは、この白さではなく、そのあとに出てくる茶色のことだと、見ているうちにわかる。にんじんを切る大きさも、「一口大」と書かれているだけで、実際に切ってみると大きすぎて、なかなか火が通らない。こうした失敗を一つずつ通りぬけたあとで、もう一度レシピを読むと、短い言葉の一つ一つに、においや手ざわりがついてくる。言葉は、体験のあとで深くなるのである。
つまり、レシピは料理の代わりにはならない。言葉で知ったことを、手を動かして確かめる。すると、言葉のうしろにあるものが見えて、言葉そのものが深くなる。レシピの外にあるものを、手が覚えていく。それが料理なのだ。
課題
家の手伝いで、料理を作ったことはあるだろうか。レシピを見れば、材料も手順も明記されている。そのとおりに作れば、だれでも同じ料理ができるはずだ。では、レシピを読んで知ることと、実際に作ってわかることは、同じなのだろうか。
一般的に、本や言葉で知れば、十分にわかると考えられている。レシピには、材料の分量も、加熱する時間も、正確な数字で記されている。多くの人は、くわしいレシピがあれば、料理はできたも同然だと考える。読んで記憶すれば、実際に作らなくても理解できる、というわけである。
ところが、体験には言葉にならない部分があり、それが言葉を深くする。言葉は、体験を切り取った一部にすぎない。レシピには「玉ねぎがすき通るまでいためる」と記されている。けれども、「すき通る」がどのような色を指すのか、どれほどの時間を要するのかは、作ってみなければわからない。切り取られなかった部分は、体験によってしか補えない。そして、一度自分の目で確かめたあとなら、「すき通るまで」の一言で、色も、においも、火の強さも想起できるようになる。言葉は、体験に支えられてはじめて、使える言葉になるのである。
はじめてカレーを作る。レシピには「肉を焼き色がつくまで焼く」と記されている。ところが、火にかけてみると、予想より早く油がはね、肉の表面はすぐに白くなる。「焼き色」とは、この白さではなく、そのあとに現れる茶色のことだと、観察しているうちに理解できる。にんじんを切る大きさも、「一口大」と記されているだけで、実際に切ってみると大きすぎて、なかなか火が通らない。こうした失敗を一つずつ経たあとで、もう一度レシピを読むと、短い言葉の一つ一つに、においや手ざわりが伴ってくる。言葉は、体験のあとで深くなるのである。
また、レシピには「塩少々」「しょうゆ大さじ一」とも記されている。しかし、同じ分量を入れても、野菜の水分や火の強さによって、味は変化する。だから、料理をする人は、途中で味を見る。なめてみて、少し足りないと感じたら足す。この「少し足りない」という感覚は、どのレシピにも記されていない。言葉で表せるのは分量までであり、そのときの味は、舌で感じるしかないからである。何度も味を見るうちに、「少々」という一語が、自分の舌の記憶と結びついていく。言葉は、体験に裏打ちされてはじめて、確かな意味を持つのである。
こう考えると、レシピは料理の代わりにはならない。たしかに、言葉で知ることは大切だ。レシピがなければ、何を、どの順で、どれだけ使うかさえわからず、体験の入り口にも立てない。しかし、言葉で知ったことは、手を動かして確かめなければならない。すると、言葉の背後にあったものが見え、言葉そのものが深くなる。レシピの外にあるものを身につけることこそ、料理なのである。
課題
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