「失敗はさけるべきもので、成功だけに価値がある」という一般論に、自転車の練習を例に反論する意見文です。転ぶことを「うまくいかない方法を一つ見つけた」と言いかえる筆者の主張を、一文でまとめてみましょう。
自転車に乗れるようになった日のことを、覚えているだろうか。何度も転んで、ひざをすりむいて、それでもまた乗る。それとも、まだ練習のとちゅうだろうか。あの転んでばかりいた時間に、意味はあったのだろうか。
多くの人は、失敗はさけるべきもので、成功だけに価値があると考える。転べば痛いし、時間もむだになる。転ばずに一度で乗れるのがいちばんよい。できることなら転びたくない、と思うのは自然なことだ。転ばない子はえらく、転ぶ子はへたなのだと、つい思ってしまう。
けれども、失敗とは「うまくいかない方法を一つ見つけた」ことである。ハンドルを切りすぎて転べば、「切りすぎるとたおれる」とわかる。下を見て転べば、「前を見たほうがよい」とわかる。転ぶたびに、体はうまくいかない方法を一つずつ覚えていく。反対に、転ぶのをおそれて乗らなければ、転ぶことはない。けれども、それは、できることしかしていないということだ。それでは、いつまでたっても乗れるようにはならない。
だから、転ぶことは、乗れるようになるまでの回り道ではない。転ぶことそのものが、乗れるようになるための道なのである。転んだ数だけ、乗れる日は近づいている。
課題
自転車に乗れるようになった日のことを、覚えているだろうか。何度も転んで、ひざをすりむいて、それでもまた乗る。それとも、まだ練習のとちゅうだろうか。あの転んでばかりいた時間に、意味はあったのだろうか。
多くの人は、失敗はさけるべきもので、成功だけに価値があると考える。転べば痛いし、時間もむだになる。転ばずに一度で乗れるのがいちばんよい。できることなら転びたくない、と思うのは自然なことだ。転ばない子はえらく、転ぶ子はへたなのだと、つい思ってしまう。
けれども、失敗とは「うまくいかない方法を一つ見つけた」ことである。ハンドルを切りすぎて転べば、「切りすぎるとたおれる」とわかる。下を見て転べば、「前を見たほうがよい」とわかる。転ぶたびに、体はうまくいかない方法を一つずつ覚えていく。反対に、転ぶのをおそれて乗らなければ、転ぶことはない。けれども、それは、できることしかしていないということだ。それでは、いつまでたっても乗れるようにはならない。
たとえば、補助輪を外したばかりの自転車に乗る。最初は、こぎ出した瞬間にふらついて、足をついてしまう。次は、少し進んでからハンドルを切りすぎてたおれる。その次は、下ばかり見ていて、まっすぐ進めない。一回ごとに転び方がちがい、一回ごとに「これはだめだ」と体が覚える。こぎ出しは強く、ハンドルは小さく、目は前に。そうやって、だめな方法を一つずつ消していった先に、ある日ふっと、転ばずに進める瞬間が来る。乗れた瞬間は一回だけだ。けれども、そこまでに転んだ回数のぶんだけ、体はたくさんのことを学んでいたのである。転んだ回数は、むだになった回数ではなく、学んだ回数なのだ。
転ぶことは、乗れるようになるまでの回り道ではない。転ぶことそのものが、乗れるようになるための道なのである。転んだ回数の多い子ほど、乗れる日は近い。
課題
自転車に乗れるようになった日のことを、覚えているだろうか。何度も転び、ひざをすりむき、それでもまた乗る。乗れるようになるまでには、たいてい、そうした時間がある。あの転んでばかりいた時間に、はたして意味はあったのだろうか。
多くの人は、失敗はさけるべきもので、成功だけに価値があると考える。転べば痛いし、時間も無駄になる。転ばずに一度で乗れるのが最もよい。できることなら転びたくない、と思うのは自然な感情である。転ばない子はえらく、転ぶ子はへたなのだと、つい思ってしまう。
けれども、失敗とは「うまくいかない方法を一つ見つけた」ことである。ハンドルを切りすぎて転べば、「切りすぎるとたおれる」とわかる。下を見て転べば、「前を見たほうがよい」とわかる。転ぶたびに、体はうまくいかない方法を一つずつ記憶していく。反対に、転ぶのをおそれて乗らなければ、転ぶことはない。けれども、それは、できることしかしていないということだ。それでは、いつまでたっても乗れるようにはならない。失敗を避けることは、成長を避けることとほとんど同じなのである。
補助輪を外した日。最初は、こぎ出した瞬間にふらついて、足をついてしまう。次は、少し進んでからハンドルを切りすぎてたおれる。その次は、下ばかり見ていて、まっすぐ進めない。一回ごとに転び方が異なり、一回ごとに「これはだめだ」と体が覚える。こぎ出しは強く、ハンドルは小さく、視線は前に。そうやって、だめな方法を一つずつ消していった先に、ある日ふっと、転ばずに進める瞬間が訪れる。乗れた瞬間は一回だけだ。けれども、そこまでに転んだ回数のぶんだけ、体は多くのことを学んでいたのである。
また、転ぶのをいやがって、いつまでも補助輪をつけたままの子もいる。補助輪があれば、たしかに転ばない。失敗は一度も起こらない。しかし、補助輪つきの自転車で走れるのは、もともと走れるはずの場所だけである。転ばない代わりに、転ばないとわかっていることしかしていない。バランスを取る力は、補助輪がある限り、一度も試されない。したがって、一年たっても二年たっても、補助輪を外せば転ぶままである。失敗を完全に避けた結果、できることが一つも増えていないのだ。転んだ子は乗れるようになり、転ばなかった子は乗れないままでいる。
こう考えると、転ぶことは、乗れるようになるまでの回り道ではなく、乗れるようになるための道そのものである。たしかに、転ばずにすむならそれに越したことはなく、けがをしない工夫は必要だろう。けれども、転ぶことを恐れて乗らないのでは、乗れる日は永遠に来ない。本当に恐れるべきなのは、転ぶことではなく、転ぶのをおそれて自転車に乗らないことなのである。
課題
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