世間と社会を、顔の見える人の輪か見知らぬ人まで含む全体か、空気で決まるルールと法で決まるルール、日本語での使い分けで比べます。評論文によく出る言葉の組み合わせなので、二つの定義を自分の言葉で言いかえられるようにしましょう。
人が集まってくらす場所を表す言葉に、「世間」と「社会」がある。どちらも自分のまわりの人々を指す言葉だ。
世間は、自分と顔のつながりがある人々の範囲だ。家族や近所の人、学校の友だちなど、名前や顔を知っていて、自分のことも知られている人たちである。きまりはどうか。文字に書かれていない。「みんながそうしているから」という空気で決まる。守らなくても罰はないが、「変わった人だ」と思われる。人の目を気にして服を選ぶのは、世間のきまりに従っているのである。
一方、社会は、見知らぬ人まで含む範囲だ。電車で向かいにすわった人のような、一度も会ったことのない人も、同じ社会の一員である。世間が自分を中心にした輪なら、社会はもっと広い全体だ。次に、社会のきまりは、法律として文字で決められている。信号は赤で止まる、物を買ったらお金をはらう、というきまりは、知り合いかどうかに関係なく、だれにでも当てはまる。だから、知らない人どうしでも、同じきまりで動くことができる。
日本語では、人の目を気にすることを「世間体」といい、しくみの中で働く大人を「社会人」という。二つの言葉は、こうして使い分けられている。
課題
人が集まってくらす場所を表す言葉に、「世間」と「社会」がある。どちらも自分のまわりにいるたくさんの人々を指す言葉で、ふだんは深く考えずに使っている。
世間は、自分と顔のつながりがある人々の範囲だ。家族、親せき、近所の人、学校の友だちや先生など、名前や顔を知っていて、自分のことも知られている人たちである。だから、その中でだれかが何かをすれば、うわさになって伝わる。次に、世間のきまりは、文字に書かれていない。「みんながそうしているから」「人に見られているから」という、その場の空気で決まる。守らなくても罰はないが、「変わった人だ」と思われたり、仲間はずれにされたりする。日本語では、世間は古くからある言葉で、「世間体」「世間がせまい」「世間話」のように、人の目や評判に関係する言い方で使われる。
日曜日の朝、近所のそうじ当番の日が来る。きまりを書いた紙はどこにもないが、家の前の道はその家の人がはくものだと、みんなが思っている。一軒だけ出てこないと、「あの家は」と話にのぼる。親が「世間体が悪いから」と言って出ていくのは、この空気に従っているのである。
では、社会はどうだろうか。社会は、見知らぬ人まで含む範囲だ。電車で向かいにすわった人や、遠くの町に住む人、一度も会ったことのない人も、同じ社会の一員である。世間が自分を中心にした輪のようなものなら、社会はだれが中心ということのない、もっと広い全体である。社会のきまりは、法律やルールとして文字で決められている。信号は赤で止まる、物を買ったらお金をはらう、というきまりは、知り合いでもそうでなくても、だれにでも同じように当てはまる。さらに、日本語では、社会は明治時代に外国の言葉を訳して作られた、比べれば新しい言葉だ。「社会人」「社会科」「国際社会」のように、しくみや制度に関係する言い方で使われる。
たとえば、家族で遠くの町へ旅行に行く。知っている人は一人もいないが、駅で切符を買えば電車に乗れ、店に入ればお金をはらって物が買える。横断歩道では、見知らぬ車が信号で止まってくれる。顔を知らない人どうしが、同じきまりで動いているのである。
顔を知っている人の輪か、顔を知らない人まで含む全体か。日本語は、この二つを「世間」と「社会」で呼び分けている。
課題
人間が集まって生活する場を表す語に、「世間」と「社会」がある。いずれも自己の周囲に存在する多数の人々を指す語であり、日常では深く意識せずに用いている。
世間は、自己と面識のある人々の範囲である。家族、親族、近隣の住民、学校の友人や教師など、名前や顔を知っており、自己のことも知られている人々である。ゆえに、その内部でだれかが何かをすれば、うわさとなって伝わる。規範はどうか。世間の規範は、文字に記されていない。「皆がそうしているから」「人に見られているから」という、その場の空気によって定まる。順守しなくとも罰則はないが、「変わった人だ」と見なされたり、仲間から排除されたりする。日本語では、世間は古来より存在した語であり、「世間体」「世間がせまい」「世間話」のように、人目や評判に関係する表現で用いられる。
たとえば、日曜日の朝に、近隣の清掃当番の日がめぐってくる。規則を記した紙はどこにも存在しないが、家の前の道はその家の者が掃くものだと、皆が考えている。一軒だけ出てこなければ、「あの家は」と話題にのぼる。親が「世間体が悪いから」と言って出ていくのは、この空気に従っているのである。
社会は、見知らぬ人々までを含む範囲である。電車で向かいに座った人や、遠方の町に住む人、一度も会ったことのない人も、同じ社会の一員である。世間が自己を中心とした輪であるとすれば、社会はだれが中心ということのない、より広い全体である。社会の規範は、法律や規則として文字で定められている。信号は赤で停止する、物を購入すれば代金を支払う、という規範は、面識の有無にかかわらず、だれにでも同様に適用される。日本語では、社会は明治時代に外国語を翻訳して作られた、比較的新しい語である。「社会人」「社会科」「国際社会」のように、仕組みや制度に関係する表現で用いられる。
家族で遠方の町へ旅行する。面識のある人は一人もいないが、駅で切符を購入すれば電車に乗車でき、店に入れば代金を支払って物が購入できる。横断歩道では、見知らぬ車が信号で停止する。面識のない者どうしが、同一の規範によって動いているのである。
つまり、日本語は、面識の有無を境にして、人々の集まりを「世間」と「社会」に呼び分けているのである。
課題
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