天平文化と国風文化を、奈良時代と唐の影響・平安時代と日本風という時代と中心、東大寺・正倉院とかな文字・源氏物語、文化を担った人々で比べる説明文です。遣唐使の停止をはさんで、外から来た文化が日本のものに作りかえられていく流れを読み取りましょう。
古代の日本には、時代ごとに特色のある文化が生まれた。奈良時代に栄えた天平文化と、平安時代の中ごろに栄えた国風文化は、どちらも都を中心に発達した文化である。
天平文化は、奈良に都があった奈良時代の文化である。このころ日本は遣唐使を送り、唐の進んだ制度や文化を学んでいた。天平文化は、遣唐使が持ち帰った唐の文化を手本にして栄えた。仏教の力で国を守ろうとした聖武天皇のもとで、都や各地に大陸風の寺が建てられた。代表的なものは、聖武天皇が建てた東大寺の大仏と、その宝物をおさめた正倉院である。正倉院には、唐や、さらに西の国々から伝わった楽器や食器などが残されている。
これに対して、国風文化は、都が京都に移った平安時代の中ごろの文化である。このころ遣唐使は停止され、唐との行き来が減っていた。それまでに取り入れた唐の文化をもとにしながら、日本の風土や生活に合った、日本風の文化が育っていった。代表的なものは、漢字をくずして生まれたかな文字と、かな文字で書かれた文学である。紫式部の源氏物語や、清少納言の枕草子が生まれた。貴族は寝殿造の広い屋しきに住み、日本の風景をえがいた大和絵でかざった。
唐との行き来が続いていたか、とだえていたかが、二つの文化のちがいの根もとにある。
課題
古代の日本には、時代ごとに特色のある文化が生まれた。奈良時代に栄えた天平文化と、平安時代の中ごろに栄えた国風文化は、どちらも都を中心に発達した文化である。
天平文化は、奈良に都があった奈良時代の文化である。このころ日本は遣唐使を送り、唐の進んだ制度や文化を学んでいた。天平文化は、遣唐使が持ち帰った唐の文化を手本にして栄えた。仏教の力で国を守ろうとした聖武天皇のもとで、都や各地に大陸風の寺が建てられた。代表的なものは、聖武天皇が建てた東大寺の大仏と、その宝物をおさめた正倉院である。では、だれがこの文化を担ったのか。天皇と貴族、そして僧である。聖武天皇は大仏を作る命令を出し、僧の行基は人々をまとめて大仏作りに協力した。鑑真は何度も失敗しながら唐から日本にわたり、正しい仏教の教えを伝えた。
正倉院には、聖武天皇が使った品々が、千年以上も前のまま残されている。正倉院は、東大寺の大仏殿の北に建つ、高床の木造の倉である。五本の弦を持つ琵琶には、ラクダに乗って楽器をひく人の絵がはめこまれている。白いガラスの器は、はるか西アジアで作られたものと考えられている。正倉院の宝物は、唐の都の長安を通って、海をこえて日本まで運ばれてきたのである。
同じことを、国風文化で見てみる。国風文化は、都が京都に移った平安時代の中ごろの文化である。このころ遣唐使は停止され、唐との行き来が減っていた。それまでに取り入れた唐の文化をもとにしながら、日本の風土や生活に合った、日本風の文化が育っていった。代表的なものは、漢字をくずして生まれたかな文字と、かな文字で書かれた文学である。国風文化を担ったのは、藤原氏をはじめとする貴族と、宮中に仕えた女性たちである。藤原氏は、むすめを天皇のきさきにして力をにぎり、はなやかな生活を送った。そのきさきに仕えた紫式部や清少納言は、かな文字を使って、宮中の生活や人々の心を書きあらわした。
源氏物語は、紫式部がかな文字で書いた長い物語である。主人公の光源氏という貴族を中心に、宮中の人々の恋や悲しみが、こまやかにえがかれている。漢字だけでは書き表しにくい、日本語の話し言葉に近い言い回しや、心の細かな動きが、かな文字によって書けるようになった。漢字を学ぶ機会の少なかった女性たちが、かな文字を得て、多くの文学作品を生み出したのである。
こうして、唐との行き来がとだえる中で、外から入ってきたものが、時間をかけて日本のものに作りかえられていったのである。
課題
古代の日本には、時代ごとに特色のある文化が生まれた。奈良時代に栄えた天平文化と、平安時代の中期に栄えた国風文化は、いずれも都を中心に発達した文化である。
天平文化は、奈良に都が置かれていた奈良時代の文化である。この時期、日本は遣唐使を派遣し、唐の先進的な制度や文化を学んでいた。天平文化は、遣唐使が持ち帰った唐の文化を規範として栄えた。仏教の力で国家を守護しようとした聖武天皇のもとで、都や各地に大陸風の寺院が建立された。代表的なものは、聖武天皇が建立した東大寺の大仏と、その宝物を収蔵した正倉院である。天平文化を担ったのは、天皇と貴族、そして僧である。聖武天皇は大仏建立の命令を発し、僧の行基は民衆を組織して大仏建立に協力した。鑑真は幾度も失敗を重ねながら唐から日本に渡航し、正統な仏教の教えを伝えた。
たとえば、正倉院には、聖武天皇が使用した品々が、千年以上前の姿のまま保存されている。正倉院は、東大寺の大仏殿の北に位置する、高床の木造の倉庫である。五本の弦を持つ琵琶には、ラクダに乗って楽器を奏でる人物の絵がはめこまれている。白いガラスの器は、はるか西アジアで製作されたものと考えられている。正倉院の宝物は、唐の都の長安を経由して、海を越えて日本まで運搬されてきたのである。
では、国風文化はどうであろうか。国風文化は、都が京都に移った平安時代の中期の文化である。この時期、遣唐使は停止され、唐との往来が減少していた。それまでに摂取した唐の文化を基礎としながら、日本の風土や生活に適合した、日本風の文化が育っていった。代表的なものは、漢字をくずして生まれたかな文字と、かな文字で記された文学である。国風文化を担ったのは、藤原氏をはじめとする貴族と、宮中に仕えた女性たちである。藤原氏は、娘を天皇の后にして権力を掌握し、華やかな生活を送った。その后に仕えた紫式部や清少納言は、かな文字を用いて、宮中の生活や人々の心情を表現した。
たとえば、源氏物語は、紫式部がかな文字で記した長編の物語である。主人公の光源氏という貴族を中心に、宮中の人々の恋愛や悲哀が、繊細に描写されている。漢字のみでは表記しにくい、日本語の話し言葉に近い言い回しや、心情の微細な動きが、かな文字によって表現可能になった。漢字を学ぶ機会の少なかった女性たちが、かな文字を獲得して、多くの文学作品を生み出したのである。
この相違は、唐との往来が継続していたか否かに由来している。外部から流入したものが、時間をかけて日本固有のものに変容していったのである。
課題
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