縄文時代と弥生時代を、狩り・採集と米作りという食べ物の得方、住まいと道具、ムラの大きさと争いで比べる説明文です。米作りの始まりが倉庫や大きなムラ、争いと身分の差を生んでいく、原因と結果のつながりを追いましょう。
日本の大昔のくらしは、縄文時代と弥生時代に分けられる。縄文時代は一万年以上も続き、そのあとに弥生時代が来た。どちらの時代も、人々は土器を使い、ムラを作ってくらしていた。
縄文時代の人々は、山でシカやイノシシをとり、海や川で魚や貝をとり、クリやドングリなどの木の実を集めて食べていた。食べ物は自然の中からさがすもので、季節によってとれる量が変わり、長くたくわえることはむずかしかった。住まいは、地面を掘って柱を立て、屋根をかけた竪穴住居である。土器は縄の模様がついた厚い縄文土器で、木の実をにるのに使った。狩りには弓矢や石器を使った。
弥生時代の人々は、大陸から伝わった米作りで食べ物を得た。低い土地に田んぼを作って米を育て、秋にとれた米をたくわえ、一年を通して食べるようになった。住まいは縄文時代と同じ竪穴住居だったが、とれた米をしまうために高床倉庫を建てた。土器はうすくてかたい弥生土器になり、稲の穂をかり取る石包丁や、青銅や鉄で作った金属の道具も使われるようになった。
米作りが始まったことが、食べ物のとり方だけでなく、住まいや道具まで変えたのである。
課題
日本の大昔のくらしは、縄文時代と弥生時代に分けられる。縄文時代は一万年以上も続き、そのあとに弥生時代が来た。どちらの時代も、人々は土器を使い、ムラを作ってくらしていた。
縄文時代の人々は、山でシカやイノシシを弓矢でとり、海や川で魚や貝をとり、クリやドングリなどの木の実を集めて食べていた。食べ物は自然の中からさがすもので、季節や天気によってとれる量が変わった。多くの食べ物は長くたくわえることがむずかしかった。住まいは、地面を掘って柱を立て、屋根をかけた竪穴住居である。土器は縄の模様がついた厚い縄文土器で、木の実をにたり、たくわえたりするのに使った。ムラは小さく、人々の間に身分の差はほとんどなかったと考えられている。
縄文時代のムラのあとからは、貝塚が見つかる。貝塚は、人々が食べ終えた貝がらを捨てた場所である。貝がらのほかに、魚や動物の骨、こわれた土器や石器も見つかり、何を食べ、どんな道具を使っていたかがわかる。また、土で作った人形の土偶も見つかる。土偶は、食べ物が多くとれることや、子どもが元気に生まれることをいのって作られたと考えられている。自然のめぐみにたよるくらしだったことが、こうした物からうかがえる。
では、弥生時代はどうだろうか。弥生時代の人々は、大陸から伝わった米作りで食べ物を得た。低い土地に田んぼを作り、春に苗を植え、秋に稲をかり取った。米は長くたくわえることができるので、一年を通して安定した食べ物が手に入るようになった。住まいは竪穴住居のままだったが、とれた米をしまうために高床倉庫を建てた。土器はうすくてかたい弥生土器になり、稲の穂をかり取る石包丁や、青銅や鉄で作った金属の道具も使われるようになった。ムラは大きくなり、米や、それを作る土地と水をめぐって、ムラとムラの間に争いが起こった。ムラをまとめる指導者も現れ、人々の間に身分の差が生まれていった。
佐賀県の吉野ヶ里遺跡には、弥生時代の大きなムラのあとが残っている。ムラのまわりには深いほりがめぐらされ、さくや物見やぐらも建てられていた。争いにそなえていたことがわかる。ムラの中には高床倉庫がならび、ゆかを高くすることで、しめり気やネズミから米を守っていた。ほかの人より大きな墓も見つかっており、ムラをまとめる指導者がいたと考えられている。たくわえた米を守ることが、ムラの形を決めていたのである。
こうして、米作りの始まりがくらしの全部を変え、たくわえられる食べ物が倉庫を生み、大きなムラを生み、争いと身分の差を生んだのである。
課題
日本の原始のくらしは、縄文時代と弥生時代に区分される。縄文時代は一万年以上にわたって継続し、その後に弥生時代が到来した。いずれの時代も、人々は土器を用い、集落を形成して生活していた。
縄文時代の人々は、山野でシカやイノシシを弓矢によって狩り、海や河川で魚介類を捕獲していた。さらに、クリやドングリなどの木の実を採集して生活していた。食料は自然から得るものであり、季節や天候に左右されて収穫量が変動した。多くの食料は長期の保存が困難であった。住居は、地面を掘り下げて柱を立て、屋根をかけた竪穴住居である。土器は縄目の文様を持つ厚手の縄文土器で、木の実を煮たり貯蔵したりするのに用いられた。集落は小規模で、人々の間に身分の差はほとんど存在しなかったと考えられている。
たとえば、縄文時代の集落の遺跡からは、貝塚が発見される。貝塚は、人々が食後の貝殻を廃棄した場所である。貝殻のほかに、魚や動物の骨、破損した土器や石器も出土し、何を食べ、どのような道具を使用していたかが判明する。また、土で作られた人形である土偶も出土する。土偶は、食料の豊かな収穫や、子どもの無事な誕生を祈って製作されたと考えられている。自然の恵みに依存する生活であったことが、これらの遺物からうかがえる。
弥生時代になると、事情が一変する。人々は、大陸から伝来した稲作によって食料を獲得した。低地に水田を開き、春に苗を植え、秋に稲を収穫した。米は長期保存が可能であるため、年間を通じて安定した食料が確保されるようになった。住居は竪穴住居のままであったが、収穫した米を貯蔵するために高床倉庫を建設した。土器は薄手で硬質な弥生土器へと変化し、稲穂を刈り取る石包丁や、青銅や鉄を材料とする金属器も使用されるようになった。集落は大規模化し、米や、それを生産する土地と水をめぐって、集落間の争いが発生した。集落を統率する指導者も出現し、人々の間に身分の差が生じていった。
たとえば、佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の大規模な集落の遺跡である。集落の周囲には深い濠がめぐらされ、柵や物見やぐらも設けられていた。争いに備えていたことが判明する。集落の内部には高床倉庫が並び、床を高くすることで、湿気やネズミから米を保護していた。他の人々より大型の墓も発見されており、集落を統率する指導者が存在したと考えられている。貯蔵した米を防衛することが、集落の形態を規定していたのである。
課題
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